「選べるのに選ばない」状態でT-ARAを12曲流した、あの夜の話

T-ARAのプレイリストを前にして、僕はしばらく指が止まっていた。選べるのに、選ばない。正確には、選ぶ気力がない。あの夜に起きた「満足度が1曲目から1ミリも動かなかった」現象が、実は行動心理のど真ん中を突いていたらしいと気づいたのは、ずっと後のことだ。今日はその話を、T-ARAの曲順を思い出しながら書いてみる。

「選べる状態」が満足度を殺すとき

まず前提として、僕は普段からT-ARAを聴く。特別なファンというわけじゃないけど、「Roly-Poly」のイントロが流れた瞬間に体が勝手に反応する程度には生活に入り込んでいる。だからあの夜も、聴きたい気持ちはあった。問題は「どれを聴くか」を自分で決めるのが、妙に重かったことだ。

この「選択肢があるのに選ばない」状態、行動経済学ではよく知られた現象がある。バリー・シュワルツが『選択のパラドックス』で紹介した有名なジャムの実験だ。スーパーで24種類のジャムを試食できる棚と、6種類の棚を用意したところ、24種類のほうが立ち止まる人は多かったのに、実際に買った人の割合は6種類のほうが圧倒的に高かった。選択肢が多すぎると、人は「選べる喜び」より「選ばないといけない負荷」を感じる。

あの夜の僕は、まさにこの24種類のジャム棚の前に立っていた。T-ARAの曲は、アルバム曲まで含めたら軽く50曲はある。プレイリストを開いた瞬間に「全部聴ける」という事実が、逆に「どれかひとつに決める」という小さな決断を要求してくる。そして疲れていた僕は、その小さな決断すら回避した。

回避した結果どうなったか。とりあえずシャッフルを押した。ここが今日の話の核心だ。

12曲流したのに、満足度が動かなかった理由

シャッフルで流れたのは、たぶんこんな感じだった。「Bo Peep Bo Peep」から始まって、「Crazy Because of You」「Why Are You Being Like This」、途中で「Number 9」が来て、また「Roly-Poly」に戻って、最後は「Sexy Love」で終わった気がする。12曲。普通に考えたら、T-ARAの代表曲がこれだけ並べば満足度は上がっていくはずだ。

でも、上がらなかった。1曲目を聴き終わったときの「まあ聴いてるな」という感覚が、12曲目までほとんど変わらなかった。これは不思議な体験だった。嫌だったわけじゃない。むしろ全部よかった。でも「よかった」が積み上がらない。点数の低い満足が、ずっと横ばいで続く感じ。

この「横ばい」の正体を、あとから考えた。おそらく僕は、曲を「聴いて」いなかった。「流していた」だけだった。自分で選んでいない曲は、意識の主導権が自分にない。シャッフルという他人(アルゴリズム)の決定に身を委ねている間、脳は「これは自分が選んだ体験だ」というタグを貼らない。心理学でいう「主体感(sense of agency)」が弱い状態だ。

主体感がないと、報酬が報酬として処理されにくい。これは報酬系の話ともつながる。人は「自分が予測して、自分が選んで、その結果が返ってくる」ループの中でこそ、次の行動への動機づけを得る。シャッフルは、そのループを完全に外側に預けてしまう。

可変比率強化とシャッフルの気持ち悪い一致

ここで少し踏み込む。シャッフル再生の何がそんなに「気持ち悪い」のか。答えは、次の曲が何か分からないという不確実性だ。そして、この不確実性が報酬と結びつくと、行動は妙に強化される。スキナーの可変比率強化(variable-ratio reinforcement)の話だ。報酬がランダムな間隔で与えられると、人はその行動をなかなかやめられなくなる。

シャッフルはまさにこれで、「次に『Bo Peep Bo Peep』が来るかもしれない」という期待が、曲を飛ばさずに聴き続けさせる。でも、来たところで「自分が選んだ」わけじゃないから、満足度は跳ねない。期待だけが強化されて、報酬の質が上がらない。これ、地味にしんどい状態だ。

実際、あの夜は「次こそ『Number 9』来い」と思いながら、来ても特に何も感じなかった。可変比率の強化ループに乗せられて聴き続けているのに、報酬の受け取り側が機能していない。12曲を無駄にしたとは言わないけど、12曲分の満足を、たぶん3曲分くらいしか回収できていない。

損失回避が「選ばない」を選ばせていた

じゃあなぜ、僕は最初から自分で選ばなかったのか。ここに損失回避が絡んでくる。カーネマンとトヴェルスキーのプロスペクト理論で有名な話だが、人は同じ大きさの得より、同じ大きさの損を強く感じる。そして「選ぶ」という行為は、常に「選ばなかったもの」を生む。

T-ARAの曲を1曲選ぶということは、他の49曲を「今回は選ばなかった」と確定させることだ。この「確定させる痛み」が、疲れているときには妙に重い。だから僕は、選ばないという選択をした。シャッフルなら「選ばなかった」が発生しない。誰も傷つかない。でも、代わりに「選んだ」も発生しない。

これが冒頭の「満足度が1曲目から動かなかった」の正体だった。損失回避が「選ばない」を選ばせて、主体感を放棄させて、報酬の受け取りを鈍らせた。全部つながっている。

競技的な「選ぶ」との対比

ここで少し視点を変える。T-ARAのファンの中には、曲を「聴く」だけでなく「並べる」ことを楽しむ人がいる。自分でセットリストを組んで、曲順に意味を持たせて、1枚の流れとして聴く。これは完全に「選ぶ」の行為だ。そして、この選ぶ行為には、ゲーム的な緊張感がある。どの曲を1曲目に置くか、どこで「Number 9」を投入するか、最後をどう締めるか。

この「選ぶ」を競技として捉えると、話が面白くなる。チェスや囲碁と同じで、選択には常に「読む」が伴う。この曲の次にこれを置いたら、聴き手の感情はどう動くか。自分で自分を相手に、先の展開を読む。この読みのプロセスそのものが、実は報酬になっている。結果として流れる12曲より、12曲をどう並べるかを考える30分のほうが、満足度が高いことすらある。

あの夜の僕は、この「読む」を放棄していた。シャッフルは読む必要がない。読まないから、当たっても外れても自分事にならない。主体感の話と完全に一致する。

「選べるのに選ばない」を、あえてやってみる

ここまで書いておいてなんだが、僕は「シャッフルは悪だ」と言いたいわけじゃない。むしろ逆で、「選べるのに選ばない」状態をあえて作ることは、使い方によっては有効だと思っている。

たとえば、新しい曲を開拓したいとき。T-ARAのアルバム曲は、代表曲に比べて聴く機会が少ない。自分で選ぶと、どうしても聴き慣れた曲に寄る。そこでシャッフルを「探索モード」として使う。主体感は弱いが、思いがけない曲に出会う確率は上がる。これはこれで、別の種類の報酬になる。あの夜の12曲の中にも、普段自分では選ばない曲が混ざっていて、それが後からじわじわ効いてきた。

要は、状態を自覚しているかどうかだ。「今は選ばないモードで聴いている」と分かっていれば、満足度が横ばいでも「そういうものだ」と受け取れる。分かっていないから、あの夜は「なんか物足りない」という漠然とした不満だけが残った。

主体感を取り戻す小さな実験

じゃあ、次に同じ状況になったらどうするか。僕が考えているのは、とても小さなことだ。シャッフルで流す前に、1曲だけ自分で選ぶ。それだけでいい。1曲目だけは自分の手で決めて、2曲目以降はシャッフルに任せる。

これは主体感の「種火」を作る行為だ。最初の1曲を自分で選んだという事実があれば、その後の流れに対する当事者意識が変わる。全部を選ぶ必要はない。1曲だけでいい。損失回避の痛みも、1曲分なら耐えられる。

実際、これを試してみたら、同じシャッフルでも12曲の受け取り方が変わった。1曲目が「Roly-Poly」だった日は、そこから流れる曲全部が「自分の延長線上」に感じられた。気のせいかもしれない。でも、気のせいだとしても、満足度が横ばいで終わらないなら、それは試す価値のある気のせいだ。

次の12曲を、どう流すか

T-ARAを聴く楽しみ方は、一つじゃない。自分で完璧なセットリストを組む日もあれば、何も選ばずに流す日もある。どちらも正解で、どちらもT-ARAの曲が持っている力に変わりはない。

ただ、あの夜の「満足度が動かない12曲」は、僕に一つのことを教えてくれた。満足度は、曲の良さだけでは決まらない。その曲を「自分のもの」として受け取れているかどうかで、同じ12曲がまったく違う体験になる。

だから次の休日は、シャッフルを押す前に、1曲だけ選んでみようと思う。選んだ曲が流れ始めた瞬間の、あの小さな「自分で決めた」という感覚を、12曲分の満足度の起点にしてみる。もしそれで今度も横ばいだったら、そのときはまた、別のやり方を考えればいい。T-ARAの曲は、何度でも聴き直せるのだから。